裸の特異点
もうひとつの“ブラックホール”

P. S. ジョシ(インドのタタ基礎研究所)
200905

日経サイエンス 2009年5月号

10ページ
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 大質量星が崩壊すると最終的にブラックホールになるというのが従来からの考え方だが,一部の理論モデルはブラックホールではなく「裸の特異点」が生じる可能性を示している。いったい何が起きるのかを整理することは,宇宙物理学の最も重要な未解決の問題の1つだ。
 ブラックホールは2つの部分からなる。中心には「特異点」が存在し,星を構成していたすべての物質がこの無限に小さな点に押し潰されている。特異点の周囲には,そこからの脱出が不可能な空間が広がっており,その空間の境界は「事象の地平線(事象地平)」と呼ばれる。ひとたび事象地平を越えたが最後,再び出てはこられない。ブラックホールに落ちていく物体が放つ光さえもがつかまってしまうので,外側にいる観察者は二度とその物体を見ることができない。物体は落ち続け,特異点に達して押し潰される。
 しかし,この描像は本当に正しいのだろうか? 既知の物理法則によれば,特異点ができるのは確かだが,事象地平についてははっきりしない。大部分の物理学者は,事象地平が科学上の不都合を覆い隠してくれる“イチジクの葉”として非常に魅力的だという理由だけで,事象地平が形成されなければならないという仮定の下に研究を進めている。特異点で何が起きているのか,物理学者はまだわかっていないのだ。特異点で物質は押し潰されるが,その後どうなるのか? 事象地平は特異点を覆い隠すことによって,この知識の欠落を問題の外に押しやってくれる。
 特異点では科学的に未知なあらゆる類のプロセスが起こるのかもしれないが,それは外側の世界にまったく影響を及ぼさない。ブラックホール内で起きていることはすべて,ブラックホールのなかにとどまる。
 ところが,この便利な仮定に疑いを差し挟む研究成果がどんどん増えてきた。星が崩壊する過程で事象地平が生じないケースがいろいろ考えられることがわかり,そうした場合,特異点は私たちの視界にとどまる。
 「裸の特異点」と呼ばれるものだ。物質も光も,そこに落ちていって再び出てくることができる。ブラックホール内の特異点を訪ねるのがそれっきりの片道旅行なのに対し,裸の特異点には好きなだけ近づいた後に戻ってきて,旅の土産話をすることが原理的には可能だ。
 もし裸の特異点が存在するなら,その意味するところは重大であり,宇宙物理学と基礎物理学のほとんどすべての面に関係してくるだろう。事象地平がなければ,特異点の近くで起きている不可解なプロセスが外界に影響を与えうることになる。
 天文学者によってこれまでに観測された謎の高エネルギー現象のいくつかは,裸の特異点に基づいて説明がつくかもしれない。裸の特異点はまた,時空の構造を最も微細なスケールで探るための実験室を提供してくれるかもしれない。裸の特異点が発見されれば,構築中の統一理論を観測事実によって検証できるようになるなど,統一理論を目指す物理学の研究を大きく変えるだろう。

再録:別冊日経サイエンス196「宇宙の誕生と終焉 最新理論でたどる宇宙」