特集:21世紀への課題
“生き物”を扱えなかった20世紀の科学

養老孟司
200012

日経サイエンス 2000年12月号

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20世紀の自然科学は,なんといってもまず物理学だった。いわゆる科学技術のほとんどは,物理を基礎とする工学を無視しては成り立たなかったからだ。それは自然科学の内部の評価にも,思考にもよく現れている。生物学では,ワトソンとクリックが遺伝子の本体であるDNAの構造を解明し,生物学が真の物質的な自然科学となったと見られてきた。しかし,それは違う。DNAの分子構造の解明で生じたのは,生物学における情報の意義の確認であり,その時点でいわば情報に物質的基盤が与えられたといえる。
 遺伝学を含めて生物学は,19世紀以来もっぱら情報科学だった。しかし,情報という概念が欠けていた。情報の本質は固定にあり,情報それ自体は動かないもので作られる。生物はそうではない。その本性として,時々刻々,ひたすら変化する。現在の細胞生物学は,その「生きた細胞」をひたすら情報化しようとする。ところが生きた細胞を情報化すれば,それはもちろん固定する。細胞は生きているが,DNAが生きているわけではない。
 21世紀は脳の世紀となるだろう。物理学さえ,脳の産物でしかない。しかし,その脳はひょっとすると,情報の対極にある細胞,つまり「生きたシステム」を扱う方法論を持たないのかもしれない。