特集:21世紀への課題
薬剤が生む新型菌との闘い

平松啓一
200012

日経サイエンス 2000年12月号

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人類の感染症に対する戦いは,暗く長い歴史を刻んできた。20世紀初頭になって,ドイツの科学者エールリッヒ(Paul Ehrlich)の脳裏にひらめいた「選択毒性」という概念が,この戦いの歴史に新しい局面をもたらし,人類に初めて勝利の美酒を味あわせることになった。
 選択毒性とは,ある化学物質が,人体に侵入した病原体に毒として働く一方,人体にはほとんど毒性(副作用)を持たないことをいう。このような性質をもつ物質を合成すれば,それを服用することで,病原体を殺し,感染症を治療できるはずだ。エールリッヒの描いた夢が,20世紀後半の化学療法(化学物質を全身投与して感染症を治療する方法)という人類史上初の感染症への勝利の歴史をもたらした。
 1929年には英国の細菌学者フレミング(Alexander Fleming)がカビの生えた培地(細菌を培養するための栄養を含んだ寒天)上に細菌が増殖できないことを偶然発見し,この現象が,カビがつくる抗菌物質の働きによることをつきとめた。この物質がペニシリンGで,微生物が自然界でつくる抗菌物質,すなわち「抗生物質」の最初の発見となった。
 ペニシリンGは,副作用がきわめて少なく,強力な抗菌力を持っていた。製薬会社が大量生産を開始した最初の化学療法剤となった。それと同時に,世界中の研究者や製薬会社は,他の新しい抗生物質を求めて,自然界の微生物の探索にのりだした。ここに20世紀の化学療法の歴史が幕を上げ,20世紀末までに100種以上の抗生物質が発見・実用化された。天然の抗生物質は化学構造を調べられ,あるものは化学的に全合成され,また化学修飾されてより強く広い抗菌活性をもつようにされた。
 人類の化学療法の歴史に数年遅れて,地球上ではもう1つの歴史の流れが刻まれるようになった。抗生物質によって殺されたり,増殖できなくされていた病原菌の側の歴史である。1940年代の半ばには,すでにペニシリンGを作用させても死なず,平気で増殖できる菌が患者の身体から見つかった。この菌は本来ペニシリンGが有効だったはずの黄色ブドウ球菌で,それがペニシリンGに耐性を獲得してペニシリン耐性黄色ブドウ球菌となったのである。黄色ブドウ球菌だけでなく,大腸菌やセラチア菌,緑膿菌などのグラム陰性菌もペニシリナーゼを作り,ペニシリンGは効かなくなった。