昆虫飛翔の空気力学

M. ディキンソン
200109

日経サイエンス 2001年9月号

9ページ
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 2トンの鉱物油を満たしたタンクの中で,一対の翼の模型が前後にはばたき続けている。翼はゆっくりと動き,5秒かけて元の位置に戻る。コンピューターで制御した6個のモーターが翼を動かし,油をかき回す。油の中には微小な空気の泡を無数に入れてあり,泡の行方を追うことで油の流れを読み取れる。
 緑のレーザー光を膜状に当てると,泡がかき回される様子が光の平面内でくっきりと照らし出され,その動きを特殊なビデオカメラで記録する。翼の中にはセンサーがあり,流体が翼に及ぼす力を時々刻々,計測している。このタンクはビールを注いだ巨大なグラスにそっくりだ。翼を持った全長60cmのハエの模型がグラスの中で動き回っていることを別にすれば──。
 私の研究グループは,これらの奇妙な装置を組み合わせ,小さなミバエの空中静止(ホバリング)という見慣れた物理現象の解明に取り組んでいる。ホバリングを実現するには「渦の発生」や「失速遅れ」,「回転循環」,「後流捕獲」などの空気力学を駆使する必要がある。しかし,現実のハエは小難しい空気力学のことなど何も知らずに,毎秒200回の割合で羽を前後に動かし,規則的にはばたいているだけだ。
 この模型には「ロボフライ(Robofly)」というあだ名をつけた。ハエの運動を真似てはいるが,実物より100倍も大きく,はばたきの速度は1/1000と遅い。小さなハエの敏捷な動きを忠実に再現するのは難しい。私たちは現実のハエに畏敬の念を抱きつつ,ある望みをロボフライに託した。昆虫はどうやって,複雑な空気力学を何食わぬ顔で利用しているのか。それを解明したいという願望だ。
 1992年,ドイツのチュービンゲンにあるマックス・プランク生物サイバネティックス研究所に所属していたゲッツ(Karl Goetz)と私は,ミバエの羽が力をどのように発生させているのかを調べようと,はばたき翼の模型を作った。模型は幅5cm,長さ20cmのパドル形で,たくさんのモーターにつながれ,濃い砂糖シロップを満たしたタンク内で動く。模型のサイズと流体の粘性が実際よりも大きいので,はばたき速度は遅くても,レイノルズ数は実際のミバエの飛行と同じになり,同じ物理現象を再現できる。
 この模型を使った実験結果のほか他の研究者の結果も集まり,昆虫飛行の謎を解く1つの手掛かりが見つかった。「失速遅れ」と呼ぶ現象だ。