特集:現代の科学論争
新しい科学論争の萌芽

久保田 啓介(編集部)
200111

日経サイエンス 2001年11月号

4ページ
( 2.0MB )
コンテンツ価格: 509

 口角泡を飛ばすような科学論争がマスメディアの表舞台に登場しなくなってから久しい。1980 年代後半に脳死論争や常温核融合が物議をかもして以来,科学論争が新聞やテレビを連日のようににぎわすことは,少なくとも日本ではめっきり減った。
 もちろん,論争のテーマが尽きたわけではない。遺伝子組み換え食品の安全性やクローン研究の是非,経済成長と地球環境保全をどう両立させるかなど,私たちの日常生活と密接にかかわる問題は事欠かない。
 科学論争が以前ほど脚光を浴びなくなったのは,なぜなのか。例えば原子力開発の是非をめぐる論議は,技術文明の行方を左右する重要な問題であるにもかかわらず,利害関係者が紋切り型の主張を繰り返すだけで,一般市民はうんざりしている。科学者の多くも細分化した専門分野から踏み出すことをおそれ,あえて火中の栗を拾おうとはしない。マスコミの切り口にも新鮮味がない。
 科学技術が長足の進歩を遂げたとはいえ,私たちの周囲にはまだ数多くの謎が満ちあふれている。小宇宙にも例えられる脳の複雑な働きは解明できるのか,生命はいったいどこから来たのか,自然界のあらゆる物理現象を一元的に説明する理論はあるのか──。
 これらの難問の解決に一歩ずつ近づいていくうえでも,健全な科学論争は欠かせない。科学史を振り返っても,論争がきっかけになって新しい発想や発見が数多く生まれた。また,開かれた科学論争は,科学を志す若い世代を鼓舞すると同時に,一般市民が科学を監視する窓にもなる。科学とエセ科学を峻別するのにも,健全な科学論争が不可欠だ。
 21 世紀前半には,どんな論争が科学界を彩るのだろうか。そして,科学論争が社会に投げ掛ける意味はどう変わっていくのだろうか。今回,本誌は先端的な学説に加え,少数派と目される説もあえて取り上げる。テーマは「心は脳にあるのか」「遺伝子は本当に利己的か」「地震予知は可能か」の3つ。まずは,これまでのおもな科学論争と,その時代背景を概観しよう。


 
時代精神を映す科学論争
 この文章で「私」を「人類」に置き換えたなら,読者はどう感じるだろうか。「人類は脳の仕組みを永遠に解明できないかもしれない」と悲観する人もいれば,「論理学的な逆説にすぎず,科学が秘める可能性を過小評価している」と感じる人もいるだろう。
 最近,脳科学や生命科学が目覚ましい進展を見せ,新しい科学論争のテーマが芽を出し始めた。脳科学や認知科学の急速な進歩は,「脳は脳を理解できるのか」という,科学にとってきわめて根元的な問いを投げ掛けている。
 生命科学でも同様だ。8月上旬,米議会を舞台にした1つの科学論争が全米メディアの注目を集めた。どんな組織や器官にも成長する胚(はい)性幹細胞(万能細胞)の研究の是非をめぐる論争だ。万能細胞を使う研究を全面的に禁止すべきだとする法案と,特定分野に限って認めるよう求めた法案が鋭く対立。米Time誌(8月13日号)は「現代は“科学の季節”のまっただなかにある。万能細胞をめぐる論戦は生命とは何か,という重大な問題にもつながっていくだろう」と論評した。
 
宗教論争から世俗化へ
 科学論争は時代精神や社会思潮を映し出す鏡だ。近代科学の誕生以来,その時代の自然観や人間観,政治・経済などさまざまな要因を巻き込んで,数多くの論争が繰り広げられてきた。しかし,19世紀までの科学論争の多くは厳密な意味での科学論争とは言いがたい。いわば科学の衣装をまとった「価値観の対立」だっともいえる。
 古典力学の基礎を築いたケプラー(Johannes Kepler)やニュートン(Isaac Newton)から,進化論を唱えたダーウィン(Charles Darwin)まで,近代科学の歴史はキリスト教的世界観との相克の歴史だった。「神が万物を創造した」とする教会勢力や,天動説を信奉するグループは,科学的な知見や方法論を後ろ盾にして進化論や地動説を攻撃したわけではない。対立軸になったのは,「人間やこの世界をどう見るか」という文字通り価値観の問題であり,いわば科学という土俵の外で争われた論争でもあった。
 20世紀に入ると科学は宗教のくびきから逃れ,純粋な学説論争が増えていく。それを象徴しているのが,ボーア(Niels Bohr)らが唱えた量子論やウェーゲナー(Alfred L. Wegener)の大陸移動説をめぐる論争だろう。大陸の海岸線の形から着想した大陸移動説は現在のプレートテクトニクス理論に結実し,私たちの地球観を一新した。米国の科学史家フランケル(Henly Frankel)は「政治や宗教など外部要因が関与しなかった“純粋な科学論争”の希有な例」と分析している。
 その一方で科学論争は世俗臭を帯びることにもなる。科学技術上の発明や発見が巨額の利益をもたらすようになり,特許など科学の“付随物”が無視できなくなったからだ。
 これは1989年に耳目を集めた「常温核融合」論争を見れば容易にわかる。米国の化学者フライシュマン(Martin Fleischmann)とポンズ(Stanley Pons)は「電気分解技術を応用すれば,試験管の中で簡単に核融合を実現できる」と新聞発表。第三者による査読をへた論文の発表という科学界では常識的な手続きを踏まなかったことが,混乱に拍車を掛けた。事実ならエネルギー問題の克服につながり,巨額の利益をもたらすとあって,当事者間に特許権をめぐる争いがあったことが明らかになっている。
 エイズウイルス(HIV)の第一発見者の栄誉をめぐり,米国立ガン研究所部長(当時)のギャロ(Robert C. Gallo)と仏パスツール研究所のモンタニエ(Luc Montagnier)が繰り広げた論争も記憶に新しい。その背後にあったのも,HIV抗体検査技術の特許権をめぐる米仏両政府の思惑だった。
 
自身を問い直し始めた科学
 21世紀の科学論争は20世紀とは一線を画し,科学という土俵の内へ向かうものになるだろう。これまでの科学技術は対象を個別の要素に分解して理解しようとする「還元主義」や,因果関係で現象を説明する「機械的決定論」などによって支えられてきた。しかし,こうした従来の科学の方法論そのものが行き詰まりを見せている。
 「脳は脳を理解できるのか」といった現代的な問い掛けに答えるには,どんな科学的方法論があるのだろうか。冒頭に引用した認知科学者の下條氏は「還元主義に対立する全体論や神秘主義ではなく,ましてやカルト的なニューサイエンスでもない。地道な蓄積による新しい洞察が必要になる」と指摘する。この「新しい洞察」は,科学自体のあり方を問う論争から生まれるに違いない。
 次ページ以降の記事では,新しい科学論争の萌芽とも呼べるテーマを取り上げる。「心は脳にあるのか」では,気鋭の哲学者が最近の認知科学の成果を踏まえつつ「心の正体」の新しいモデルを提唱している。このモデルは,人びとが日常的に抱いている心(こころ)観を変革し,新しい認知科学の展開につながる可能性もある。
 「遺伝子は本当に利己的か」では,進化の主体をめぐる,生物学者の論争を描く。論争からこれまでの「遺伝子」観自体を見直そうという動きも,分子生物学の中からは出始めている。
 「地震予知はできるか」では,天体観測家が「経験則は科学ではないのか」と,科学のあり方について素朴な疑問を投げかけている。