特集:脳力増強の科学
不安とうつを克服する

R. サポルスキー
200312

日経サイエンス 2003年12月号

11ページ
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 精神疾患患者の治療に対する社会の取り組み方は,ここ数世紀で大きく変わってきた。現在の最先端の治療法は,神経化学的作用を持つ薬だ。20?30年前には前頭葉前部を切断するロボトミーや,インスリンによる低血糖性昏睡を利用するインスリン・ショック療法が,最も効き目があり思いやりのある方法だった。それ以前は拘束と冷水浴で十分と考えられていた。さらにその前は悪魔払いの時代だった。
 精神疾患の原因に対する社会の見方も変わってきた。悪魔憑きという考え方から卒業すると,こんどは遺伝と環境のどちらの影響が大きいのかという議論に膨大なエネルギーが投じられた。実際の精神疾患ではこの2つが複雑に絡み合っており,こうした議論はまったく無意味だ。トラウマ(心的外傷)によって心が破壊されるのは確かに環境の影響だ。
 だが,生物学的に他の人たちより脆弱な,病気にかかりやすい人がいることは否定できない。逆にいえば,主な精神疾患を解明するには,遺伝子が重要な要素であることは間違いない。だが一卵性双生児の片方が精神疾患にかかっても,もう1人が発病しない可能性は50%近くある。
 生物学的脆弱性と環境的な誘発要因には明らかに相互作用がある。ここではその相互作用の中でも,ストレスをもたらす外的要因と生物学的な心の反応との関係について検討する。最近,精神疾患で最も一般的な不安障害とうつ病に対して,ストレスが及ぼす影響について多くのことがわかってきた。
 米国立精神衛生研究所によれば,米国の不安障害とうつ病の毎年の患者数はそれぞれ2000万人近いという。またプロザック,ウェルブトリン,バリウム,リブリウムなどの薬を改良し,効き目が速くて長く持続するものや副作用の少ない次世代薬を開発しようという研究が多く行われている。
 同時に,ストレスに関する知識のおかげでまったく新しい薬の開発への道が開かれてきた。不安や抑うつの治療法がめざましい進歩を遂げてきたにもかかわらず,こうしたさまざまな方法が必要なのは,現在使われている薬が効かない人が多いことや,副作用が大きいといった単純な事実のためだ。
 この分野の研究は,これらの病気の治療だけでなく,幅広く応用できるはずだ。診断の際,不安障害やうつ病の患者とそうでない人の境界は必ずしも明瞭ではないからだ。ストレスに関する研究から,誰もが経験したことのある日常的な不安やうつに関する知識も得られるだろう。