特集:生命を支えるRNA
生物進化の陰のプログラム

J. S. マティック
200501

日経サイエンス 2005年1月号

10ページ
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 推測は危険だ。特に科学の世界では。通常,既知の事実を一番もっともらしく,すっきりと説明できる考え方として推測はスタートする。その真偽をすぐに確かめることができず,明らかな誤りも見られないときには,推測は揺るぎない通説へと変わり,新たな発見があってもその説に合うような都合のよい解釈がつけられてしまう。だが,それまでの考え方に反する証拠が増えてくると,通説は崩れ去るしかない。
 私たちはいま,遺伝情報に関する理解について,まさにそうした転換期に立ち会っているようだ。過去半世紀あまり分子生物学を支配してきた「セントラルドグマ」では,DNAに暗号として書かれている遺伝情報はRNAという仲介役の分子に転写され,それが翻訳されてアミノ酸配列に置き換えられてタンパク質ができるとされてきた。
 「1つの遺伝子からは1つのタンパク質がつくられる」と信じられていたために,遺伝子とタンパク質はほぼ同義であると考えられた。したがって,タンパク質は細胞内構造物の素材となったり酵素として働くほか,遺伝子の発現(活性化)を調整する役割も一手に引き受けているに違いないと思われていた。
 この結論は,大腸菌などの細菌(バクテリア)をはじめとする原核生物(核をもたない単細胞生物)を使った実験から導かれたものだ。実際,原核生物ではこの考え方は現在でも基本的に正しい。原核生物のDNAはほとんどがタンパク質をコードする遺伝子でできており,遺伝子と遺伝子の間にあるDNA部分は隣接する遺伝子の発現を調整する配列だ(遺伝子発現を調節するRNAをコードしている遺伝子もいくつか存在するが,大部分の原核生物では,それらはゲノムのごく一部を占めるにすぎない)。
 また,これまでは多細胞生物(核を含む細胞でできた真核生物に属する)でも同様に,遺伝情報はすべてタンパク質として表れ,タンパク質が遺伝情報の調節も行っていると考えられてきた。動物や植物,菌類(カビやキノコ)など,すべてに当てはまるとみられた。分子生物学者のパイオニアであるモノー(Jacques Monod)はセントラルドグマの普遍性をこう要約した。「大腸菌で正しいと証明されたことはゾウでも正しい」。
 しかし,モノーの考えは部分的にしか正しくない。真核生物の研究からは,セントラルドクマだけでは説明しきれない結果が次々に出ている。確かにタンパク質は真核生物でも遺伝子発現を調節しているが,それと並行して隠れた調節機構が働いている。RNAがDNAやRNA,タンパク質に直接働きかける仕組みが存在するのだ。
 これらRNAによるシグナル伝達機構はこれまで見過ごされてきたが,ヒトなどの生物が単細胞生物よりもはるかに複雑な構造をとれるようになったのは,この仕組みのおかげだったと考えられる。
 これは従来の定説からすると異端の発想なので,疑わしく思ったり真っ向から反対する分子生物学者もいる。しかしこの新たなアイデアによって,長らく謎とされてきた発生と進化にかかわる現象がいくつか解明されそうだし,遺伝子の働きに着目した治療法や新薬の開発も大いに進みそうだ。さらに,生物学にとどまらず,フィードバック制御を使った工学システムなど,あらゆる種類の複合プログラムシステムの設計に革命が起こる可能性がある。