自己組織化する視覚チップ

K. ボアヘン
200508

日経サイエンス 2005年8月号

11ページ
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1997年,チェスの世界チャンピオン,カスパロフとIBMのスーパーコンピューター「ディープブルー」が対決し,僅差ではあったもののディープブルーが勝利した。しかし,これは腕力に頼った勝利だった。ディープブルーは1秒間に2億通りもの駒の動きを評価できるが,生身のカスパロフはたかだか3通りまでなのだ。
 チェスではディープブルーが勝利したが,視覚・聴覚・パターン認識・学習といった分野になるとコンピューターの能力は人間の脳に到底及ばない。人間なら遠くにいる人の歩き方を見ただけで知り合いかどうかがわかるが,コンピューターにはそうした芸当はできない。また,動作効率は比較にも値しない。スーパーコンピューターは一部屋を占領するほどの大きさだが,神経組織の塊である脳はメロンほどの大きさだ。重さで比べればおよそ1000倍,大きさなら1万倍,消費エネルギーでは数百万倍の開きがある。
 脳の“素子”であるニューロンは化学物質によって情報を伝達するため,その動作はかなり遅い。にもかかわらず,なぜ脳は視覚情報などの処理を最速のコンピューターよりも高速で効率よくこなすのか。その秘密は,脳のシステムがどのように構成されているかにあるようだ。
 コード化した命令を実行するコンピューターとは違って,脳はニューロン間の接続を活性化させて情報を処理している。この活性化のひとつひとつがコンピューターでいう命令の「実行」に相当する。比較すると,脳の活動は圧倒的で,1秒間に1京個のシナプスが活性化する。これはインテル製ペンティアムプロセッサー100万台を搭載したコンピューターに匹敵し,コンピューターでこの動作を実行するには数百メガワットの電力がかかる。
 驚異的な処理能力を持つ神経系の構成と機能をシリコン上に再現できれば,視覚障害者用の眼球埋め込みシリコン網膜や,省電力な聴覚障害者用音声プロセッサーの開発につながるだろう。ロボットや知的マシン向けの安価で高性能な視覚・聴覚・嗅覚認識チップの実現も可能になる。