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アリストテレスの提唱した「五感」は,古代ギリシャ哲学では「自然を把握する能力」を意味していた。例えば私たちは視覚を使って光を感知することで,自分を取り巻く環境からの情報を得ている。同じように嗅覚と味覚は化学物質を,触覚は温度や圧力を,聴覚は空気の振動を感知することで,周囲からの情報を集めている。
五感は多くの生物が共通にもっている。私たちは他人はもちろん,時にはイヌや鳥までが自分と同じように世界を感知していると漠然と考えてしまうが,必ずしもそうではない。ヒトは視覚に頼る度合いが大きいが,イヌなどではむしろ嗅覚で世界を“見ている”。五感のうちどの感覚をより発達させるかは,その生き物がどういう環境の中で進化・適応してきたかによって大きく異なる。さらに,例えば視覚で言えば,三色視ができるとか,紫外線は見えないなどと言ったように,それぞれの感覚が具体的にどういう特徴をもっているのかは,その生物種がもつ「感覚受容体」の種類によって決まる。
ヒトをはじめとする霊長類の多くは世界を三色視で眺めている。これは赤・青・緑のそれぞれを感知できる色覚受容体があるからだ。しかし,これは哺乳類としては例外的だ。恐竜が闊歩した時代に長らく夜行性の生活を余儀なくされた哺乳類は,色覚が退化し,緑の色覚受容体をもたない種が多い(とはいえ,脊椎動物全般の中で言えば,ヒトの視覚はむしろ退化型だ。キンギョやハトやカエルなどは4種類の色覚受容体をもち,世界を四色視しているからだ)。
恐竜の絶滅後,霊長類の一部の系統で画期的なことが起きた。赤の受容体遺伝子が重複して2つになり,さらに一方が変異して緑を感知する受容体遺伝子になったのだ。三色視の獲得である。これは霊長類の中でも狭鼻猿類(旧世界ザル,類人猿,ヒト)と呼ばれるグループだけで起きたことで,これ以外の霊長類(南米に生息する新世界ザルやキツネザルなどの原猿類)はイヌ,ネコなどと同じく今も緑の色覚がない。逆に,三色視をもたらす変異が狭鼻猿類に広まったのは,夜行性から昼行性へと変わったのと無関係ではないはずだ。太陽光に照らされた世界では色覚をもつことの利点は大きい。
そして,ヒトを含む狭鼻猿類では三色視が可能になったことが,嗅覚やフェロモン系の退化につながった。さらに,チンパンジーやゴリラなどと比較するとヒトは苦味を感じる受容体遺伝子でも退化が速く起きていることがわかる。これは,ヒトでは知識を記憶したり,他者に伝達できるようになったことと関係していると私たちは考えている。この仮説を,感覚の遺伝子を見ながら検証していこう。