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「絶滅の危機に瀕した種」──ニュースでしばしば耳にする言葉だ。だが,ここでいう「種」とは何だろう? ある生物集団が種であるかどうかという最も基本的な点が,実は学界では必ずしも合意が得られていない。種の概念をめぐって何十年にもおよぶ論争が続いてきたのだ。最新の総説によると,現在使われている種の概念は少なくとも26はある。
少し前ならば,分類学者は翼やヒレの特徴など,目に見える外部形態に基づいて,新種であるかどうかの判定を下していればよかった。しかし,今日ではDNAの塩基配列が読めるようになり,その情報を手がかりにして生物多様性の隠れた鉱脈を堀り当てつつある。このことが,種をめぐる見解の対立がより先鋭化している理由の1つになっている。
科学が世に現れるはるか前から,人間は種を命名してきた。動物を狩猟したり植物を採集したりするには,対象となる生き物が何であるかを示す呼び名が必要だった。近代科学としての分類学は1600年代に形づくられ,18世紀には独立した研究分野となった。そこでの最大の貢献者はスウェーデンの博物学者リンネ(Carolus Linnaeus)だ。
リンネは生き物を階層的なグループに分けるシステムを開発した。たとえば,人間は,ヒト(Homo sapiens)という種名が付けられている。ヒトという種はヒト属(Homo)に含まれ,ヒト属は霊長類という目(もく)に,さらにその上の哺乳類という綱(こう)に属する。リンネが作りあげたこの体系のおかげで,分類学者の仕事はとても容易になった。しかし,種と種の間の線引きは,なおしばしば問題を引き起こした。2種のネズミが生息域の重なる地域で交雑したら,その交雑個体を何と命名するのか? アイルランドのカラフトライチョウは,スコットランドのカラフトライチョウと比較すると,羽毛が少しだけ異なる。これらは別種なのか,それとも単一種内の変種(すなわち部分群)にすぎないのか? リンネは,あらゆる種は神によって創造されたまま現在にいたったと考えた。生物は進化し,種は分化するという考えはなかったのだ。彼の作った体系はこうした静的な考えに基づいている。
ダーウィン(Charles Darwin)は,種をめぐるごたごたを「もともと分けられないものを分けようとするからこんなことになるのだ」と書いている。種は創られたまま不変であり続けるのではなく,進化してきたのだ。種と呼ぶ生物群はいずれも,もとは祖先種の変種として出発した。時間が経過するとともに自然淘汰が作用し,適応できない変異個体は消え去ったが,変種のなかには生息環境により適応するようにさらに変化するものもいた。その結果,もとの変種は他とは大きく異なるようになる──こうして初めて種と呼べるものが形づくられる。
研究者が種間の遺伝的な違いを調べられるようになったのは,20世紀に入ってからのことだ。遺伝的な研究とともに,種についての新しい見方が生まれた。それは,「種を種たらしめているものは他種との交雑に対する障壁である」という考えだった。
現存する種のある個体群が,同種の他個体と交配できなくなる状況を考えよう。たとえば,氷河が生息域を分断するというような場合だ。隔離された個体群は新しい遺伝子を進化させ,そのために交配が困難もしくは不可能になるかもしれない。何十万年にもおよぶ時間が経過すれば,多くの障壁が進化するために,隔離された個体群は別種となるだろう。
こうした種が進化するメカニズムに基づいてマイア(Ernst Mayr)が主張したのが今日では「生物学的種概念」と呼ばれる定義で,教科書にも載る標準となっている。マイアは1942年に,「種とは遺伝子プールであり,その中では互いに交配するが,他の集団とはうまく交配できないような個体群の集まり」と定義した。
しかし,多くの研究者は,生物学的種概念では満足しなかった。1つには,種と呼べるためにはどのくらい交配が困難であればいいのか(生殖的な隔離が生じていればいいのか)が示されてはいなかったからだ。生物学者たちはあいかわらず,外見上の差があるのに,ごく普通に交配している種をどうするかという悩みから解放されなかった。逆に,同じ種とされながら,あまり交配していない種もある。
さらに困難な問題は,もともと性をもたない種をどうするかだ。マイアの種概念に満足できない研究者たちは,新しい種概念を模索した。いずれも種とは何であるかの本質をとらえるべく編み出されたものだ。生物学的種概念にとって最強のライバルは「系統学的種概念」と呼ばれていて,定義から性を外し,その代わりに共通祖先からの系譜を持ち出す。
類縁関係の近い生物が共通の特徴をもっているのは,それらが祖先を共有するからだ。ヒトとキリンとコウモリは,すべて哺乳類の共通祖先から由来していて,その結果として,この3種はいずれも体毛を生やし,母乳で子どもを育てる。哺乳類の中で,ヒトは他の霊長類とより近い共通祖先を共有している。この共通祖先から,霊長類は他にも特徴を受け継いでいて,たとえば前方に向いた目はその一例だ。
このようにして,系統的により限定された生物群へと絞り込んでいくのだが,ついにはそれ以上に絞り込めない集団に行き着く。系統学的種概念に従えば,その最終地点が種となる。ある意味で,この種概念は,リンネのもともとのシステムを進化という観点からアップデートしたものにほかならない。
しかし,系統学的種概念の採用により,種の細分化が今後どんどん進んでしまうのではないかと警戒する意見もある。ロンドン大学インペリアルカレッジのメイス(Georgina Mace)は,「系統学的種概念の問題点は,どこまで分ければいいのかがわからないという点にある」という。少なくとも原理的には,突然変異が1つでもあれば,それを共有する小さな動物群に対して種名を与える根拠となるだろう。「しかし,そこまで細かく分けるのは少々ばかげている」と彼女は言う。メイスは,ある個体群を新種として独立させるためには,それが,地理的分布や気候条件あるいは捕食者被食者の関係の点で生態的に異なっていることを示すべきだと言う。
しかし,種を分けすぎることを心配するのではなく,あくまでデータに基づいて判断すべきだという研究者もいる。ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校のウィーンズ(John Wiens)は,「種の細分化を懸念するのは本末転倒だろう」と反論する。「最初から『種数の上限はここまで』と制限するのはとても科学的とはいえない」と彼は主張する。
数年前のことだが,スミソニアン協会の生物学者デ・ケイロス(Kevin de Queiroz)は,種をめぐるこのような果てしない論争を目の当たりにして,種論争はもう行き着くところまで行ってしまったと確信した。デ・ケイロスによれば,種論争の大部分は,種の定義の内容を問題としているのではなく,その運用をめぐる混乱にすぎないと言う。「運用上の混乱は実際には単純そのものだ」。競合する種概念の大半は基本的なことがらについては事実上の合意に達している。たとえば,種とは互いに異なる進化的系譜であるという点に異を唱える定義はない。デ・ケイロスはそれこそが種の最も基礎となる定義だと言う。種をめぐる対立のほとんどは,実際には種の概念をめぐってではなく,いかにして種を認識するかに関して生じている。
デ・ケイロスの考えでは,場合に応じて最も適切な方法というのがある。たとえば,鳥の集団ならば,生殖隔離の強さが種と呼ぶための十分な証拠となる。しかし,性をもたないヒルガタワムシの場合には別の基準が必要で,それによって判定すればよい。デ・ケイロスの楽観的な見方に賛同する研究は少なくない(多数派でもない)。
種の定義をめぐる問題をさらに厄介にしているのが微生物だ。生物多様性の90%以上を占める微生物の種は,どう定義すればよいのだろう? 動植物にも,微生物にも適用できる種の定義は可能なのだろうか? (本文より編集部が抜粋して再構成した)。