特集:幹細胞を医療現場へ
血の通った臓器をつくる

A. カデムホッセイニ(ハーバード大学)
J. P. バカンティ(マサチューセッツ総合病院)
R. ランガー(マサチューセッツ工科大学)
200908

日経サイエンス 2009年8月号

9ページ
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 10年前に著者の2人(ランガーとバカンティ)は,組織工学の可能性について本誌に総説を書いた。細胞と非生物材料を工学的な手法で組み合わせ,生きた組織を「構築」するという私たちのアイデアを,当時は多くの人々が非現実的と考えていた。だが,ケガや病気などでダメージを負った臓器や組織の機能を肩代わりできる移植用の臓器・組織は,常に必要とする患者が順番待ちの状態で待っている。現在,米国では約5000万人が,臓器の機能を肩代わりするさまざまな治療法のおかげでなんとか生き延びている。また先進国では65歳以上の高齢者の5人に1人は,一生を終えるまでに何らかの形で臓器の機能を代替する技術を必要とする可能性が非常に高い。
 臓器代替法として利用されている現在の医療技術には,人工心臓や人工透析,臓器移植などがあり,多くの命が救われてきた。だがこれらは患者の負担が大きかったり,ドナーが不足していたりで,解決策としては不十分だ。組織工学によって細胞からつくる再生組織ならば,患者の免疫系に適合したものを提供でき,臓器の機能不全に苦しむ患者の生活を大きく変える可能性がある。さらに,再生組織は新薬候補の毒性試験をしたり,将来的には副作用の有無を投与前に確かめる「臓器チップ」としても役立つだろう。
 組織工学によって,すでに細胞集合体,薄い細胞シート,厚みのある複雑な構造物などが実現しているが,最終的なゴールは完全に機能する臓器を丸ごとつくることだ。最初に私たちが組織工学の課題を示してから,今日までの間に大きな進歩があった(R. S. ランガー/J. P. バカンティ「新しい医療を目指して」日経サイエンス1999年7月号を参照)。人工皮膚や人工軟骨などの製品は,すでに多くの患者に使われている。膀胱や骨,角膜,気管支,血管などの再生組織は臨床試験が進んでいる。より複雑な組織構造を構築しようという研究でも,有望な結果が得られている。
 10年前に私たちが指摘した課題の一部はまだ解決していない。だが,胚からの発生や自然治癒の過程で,身体の組織が作られたり,修復される仕組みが詳しくわかるようになり,その知識をもとに組織工学は大きく進歩した。また,組織工学のもうひとつの主役である非生物材料についても,化学的,生物学的,機械的な性質の改良が進んだし,組織構造を構築するための工学的手法も進歩してきた。こうして,組織工学は大いに発達し,その成果である人工組織の移植が新しい治療法として選ばれることもますます増えている。
 最初に臨床試験に進んだ再生組織が皮膚や軟骨だったのは,これらの組織の内部に大規模な血管系を構築する必要がないからだ。しかし,ほとんどの組織では血管系が必要となるため,血液供給の難しさが壁となって,大きなサイズの再生組織をつくるのは困難だった。これを解決しようと,血管を設計して再生組織に組み込むことに焦点を合わせた研究が数多く行われている。
 厚さが0.1mmを超える組織では血管系が必要となる。毛細血管が近くにないと,細胞は酸素や栄養素を吸収できないからだ。これらの燃料を取り上げられると,細胞はすぐに弱って,そのまま回復不能になってしまう。
 ここ数年の間に,組織の内外に血管を構築する新しい方法が数多く開発された。それは,血管内皮細胞の研究が進んだことが大きい。内皮細胞は毛細血管をつくっている細胞で,太い血管では内側を覆っている。この内皮細胞が必要とする環境条件についての理解が進んだほか,材料を非常に微小なスケールで加工できるようになった。例えば足場となる材料の表面を加工し,幅が髪の毛の1/1000しかないナノスケールの溝を並べる。その上に内皮細胞を置くと,毛細血管のような管のネットワークが形成される。この溝は体組織の構造をまねたもので,内皮細胞による血管形成を支え,重要な環境シグナルとして働いている。
 パソコンや携帯電話用の電子チップに使われる微細加工技術も,毛細血管ネットワークを作るために利用されている。例えばバカンティはマサチューセッツ州ケンブリッジにあるドレイパー研究所のボレンスタイン(Jeffrey T. Borenstein)とともに,組織中の毛細血管ネットワークをまねようと,生分解性ポリマーでできた足場の中に多くの微小流路を直接作り込んだ。これらの流路の内部で培養した内皮細胞は血管を形成する一方で,足場材料に血液がくっついたときの影響を最小限に抑える天然のバリアとしても作用する。代わりに薄膜フィルターを使い,血液が流れる流路と組織中の機能細胞を分離する方法もある(23ページの写真,57ページの囲みを参照)。
 細胞と血液を分離する一方で,互いにさまざまな分子を交換できるように位置関係を近く保つ仕組みとしては,細胞をハイドロゲル中に浮遊させる方法もある。ハイドロゲルはポリマーの網目構造に水が含まれたゼラチンのような材料だ。ハイドロゲルは,組織中のすべての細胞を取り囲んでいる天然の細胞外マトリクス(細胞と細胞の間を埋めている基質)と化学的によく似ている。この材料の中に機能細胞を埋め込み,ゲル中を走る流路の内側を内皮細胞で覆えば,血管に似た構造を備えた組織を作ることができる。