ここまで来たiPS細胞

K. ホッケドリンガー(ハーバード大学)
201007

日経サイエンス 2010年7月号

8ページ
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 卵子や胚を使わずに,成熟した体細胞を胚に似た初期状態に戻したのがiPS細胞だ。これを人体に220種類ある細胞のどれにでも変えられるようになれば,新たな治療や,患者に合った取り替え用組織づくりにつながる。
細胞がどのようにして生物学的時計を巻き戻しているのか,そしてiPS細胞が胚性幹細胞と同じ能力を備えているのかどうか,活発な研究が進んでいる。
 2006年冬のある朝,研究室で顕微鏡をのぞいて胚性幹細胞(ES細胞)そっくりの細胞コロニーが見えたときの興奮を,私ははっきりと覚えている。培養皿の上で3週間近く分裂を続けて小さな塊になった細胞群で,どれも鮮やかな色の蛍光を放っていた。この蛍光マーカーはこれらの細胞が胚細胞と同様の「分化万能性」を備えている印だ。つまり,あらゆるタイプの生体組織になる能力がある。
 だが,これらの細胞は胚から取り出したものではない。もとは成体マウスのふつうの細胞であり,いくつかの遺伝子を加えただけで,それが“若返った”ようだ。
 哺乳動物の細胞のなかにある時計を巻き戻して細胞を初期状態に戻すことが,本当にこんなに簡単にできるのだろうか? 当時そう怪しんだのは,私だけではなかった。
 京都大学教授の山中伸弥(やまなか・しんや)らが,マウスの皮膚細胞からiPS細胞を作り出す方法を示した画期的研究を公表したのは,その年の8月のこと。それまで研究者たちは,ES細胞の大きな可能性を理解・制御して,医療と研究に利用できる生体組織を作り出そうと,何年も苦闘してきた。胚を使うことに伴う政治的・倫理的な議論や,研究の挫折との戦いでもあった。だから幹細胞研究者は日本チームの結果に驚愕し,最初はやや懐疑的だった。だが私はあの朝,山中の手法がもたらした結果を自らの実験によって直接目にしたのだった。
 他の科学者たちも山中の仕事を再現し,ここ2〜3年でiPS細胞の作成・試験法は急速に進歩した。現在,世界の何千人もの科学者が1型糖尿病やアルツハイマー病,パーキンソン病など,いまだに完治できない病気の解明と治療に役立てようと,iPS細胞を利用する研究に取り組んでいる。少数の遺伝子を導入するだけで細胞のアイデンティティーを変えられるという可能性は,ヒトの発達に関する科学的な見方をも変えた。
 もちろん,この技術はまだ生まれたばかりだ。しかしiPS細胞が多くの悲惨な病気の研究と治療に今後も影響を与え続けるのは確実だろう。そして,20世紀にワクチンと抗生物質がもたらしたのと同じくらいの大きな影響をもって,21世紀の医療に革命をもたらす可能性がある。