盲人の不思議な視覚

B. デ・ゲルダー(ティルブルフ大学)
201008

日経サイエンス 2010年8月号

8ページ
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 TN氏と呼ばれる全盲の男性が散らかった廊下を歩くビデオがある(http://www.ScientificAmerican.com/may2010/blindsightで見ることができる)。彼は「そこには何もない」と嘘を伝えられていたにもかかわらず,障害物をすべてかわして進んでいく。しかも,本人はそこに障害物があったことも自分がそれをよけたことにも気付いていないという。何を見ているかわからないのに目に入ったものに反応する──そんなことがあり得るのだろうか?
 TN氏は数年前,脳卒中を起こして視覚を失った。目は健全でも,脳の第一次視覚野が損傷を受けると,その損傷領域に対応する視野が見えなくなる。例えば,第一次視覚野全体が損傷を受けた場合は視野全体が,右半球の第一次視覚野を失った場合は視野の左半分が見えなくなる。
 こうした脳損傷が原因の視覚障害者の中に,「ブラインドサイト」と呼ばれる特異な能力を発揮する人がいる。見えないはずの物体や画像に反応するのだ。 TN氏の例は特に劇的だが,ほかの患者でも同じように不思議な能力が見られる。ブラインドサイトで識別できる対象には,○や×などの単純な図形や縞模様などがある。また,人物や性別は識別できないが,顔や体で表した感情はわかるという。
 最近の研究で,ブラインドサイトにかかわる脳領域が明らかになってきた。進化的に古くからある「上丘」と呼ばれる領域が関係しているようだ。最新の脳画像解析技術で,ブラインドサイトで使われる神経回路も研究されている。
 このブラインドサイトと同じような能力が,一般の健常者にもあるかもしれない。サブリミナル画像を使って,気付かないほど一瞬の間に画像を示したり,特殊な方法で第一次視覚野の機能を一時的に止めたりすると,何が見えたかわからないのに,示した画像の性質を当てることができるという。なお,正常な視覚を持つ人の一時的に物が見えない状態と,脳損傷によって永続的に物が見えなくなった状態とが機能的に同じかどうかはまだ議論中だ。
 私たちは自分が何を見ているか常にわかっているわけではない。同様に,何が見えていないのかを常に把握しているわけでもない。「見る」と「知る」の関係は,私たちが普段考えているよりはるかに複雑なようだ。